日本神経回路学会

日本神経回路学会

会長挨拶

会長挨拶

会長就任にあたって

                                                                 会長 阪口 豊

 日本神経回路学会は,それまで有志により毎年行われていた神経情報科学研究会を学会組織として発展させる形で1989年に設立されました.神経情報科学研究会では,毎年,夏は富士の裾野,冬は蔵王でそれぞれ合宿形式の研究会を重ねていたそうで,蔵王ではスキーを楽しんだあとに畳敷きの部屋で横になりながら研究の議論をしていたという話を聴いたことがあります.設立時は第2次ニューラルネットワークブームの真っただ中にあったこともあるかもしれませんが,熱意ある研究者が集まって学会を立ち上げたときの勢いは,当時の学会ニュースレターから感じ取れます.私がこの分野で研究を始めたのはまさにこのころで,修士論文で神経場に地図が形成されるニューラルネットワークモデルに取り組んでいたころのことを思い出します.

 当時の研究会・学会では,神経科学(主に電気生理学)での実験的知見を参考にして脳の情報処理の仕組みを解き明かしたいというモデル研究者,神経回路網という未知の性質をもった系の情報処理特性を明らかにしようとする数理研究者,計算モデルの考え方を参考にして実験結果の解釈や新しい実験のアイディアを手にいれようとする実験系の研究者,さらに,これらさまざまな知見やアイディアに基づいて有用な工学システムを構築しようとする研究者,神経系と同様の機能を電子デバイス上に実装しようとする研究者が集い,活発に情報交換をしていました.あらためて考えてみれば,当時の研究者が本学会に参加する理由は,新しい研究課題を探しに,あるいは,まだよくわからない問題を解決する手段を探しに,自分とは専門の異なる研究者が集まる場に出かけていくことにあったように思います.いいかえれば,本会の出発点は「なんだかわからないけれど面白そうな未開拓分野」を手がける「フロンティア精神」をもった研究者が集まる場だったのだろうと思います.

 第2次ニューラルネットワークブームが下火になるのに伴い,工学応用を指向した研究者の参加は大幅に減りましたが,その後もモデル研究者,数理研究者,実験研究者の協力は続いてきました.例えば,脳研究に関するまとまった研究予算が科研費の特定領域研究・新学術領域研究などにつくようになると,これらのプロジェクトにかかわる研究者交流の場として(ちょうど神経情報科学研究会と同じように)毎年夏と冬にワークショップが開催されるようになりました.冬のワークショップはいまでもルスツリゾートで継続的に開催されていて,神経科学系の研究者にとって最も意義のある議論の場の一つとして機能しています.

 このような異分野交流の蓄積の結果だと思いますが,最近では計算モデルの考え方は神経科学者のあいだに広く浸透し,実験系の研究者が計算モデルや工学システムの考え方に基づいて問題設定を語るのはあたりまえのことになりました.その一方で,計算モデルの考え方が神経科学の常識と化したことは,計算モデルは実験研究者にとってもはやフロンティアではなくなったことを意味します.

 また,本学会の重要なトピックの一つであった学習メカニズムの研究も,神経系の構造や特性を参考にしたアドホックな手法から最適化理論や確率モデル等を土台とした系統的な手法へと進化していくにつれ,議論の中心は脳モデルから離れ,情報理論や統計理論といった数理工学の問題として進歩するようになりました.また,2010年代から沸き起こった第3次の人工知能(ニューラルネットワーク)ブームにおいて,本学会では第2次ブームのときのような熱狂的な勢いが生まれませんでした.その理由の一つはおそらく,今回のブームのメインプレーヤーがモデル研究者ではなく情報工学の研究者・開発者であることにあるのでしょう.いまや,深層学習をはじめとする人工知能プログラムの多くは,親切なマニュアルとともにGitHubをはじめとするサイトで公開され,だれでもダウンロードして自由に使えるようになっています.そして,既存のライブラリを足がかりにより機能の高いライブラリが次々と開発・公開されるという拡大再生産が繰り返されています.このような「便利なツールを提供しよう」「公開されたツールを活用して未解決の問題を素早く解決しよう」という価値観は完全に工学的なものです.

 このように考えてみると,本学会の30年の歴史においては,当初の異分野間交流の中で議論されていた新しい研究が各分野においてそれぞれ花咲く一方で,各分野での進化・成熟とともに異分野間交流の比重が下がっていったといえるのではないでしょうか.本会参加者の減少の背景には(会員減少はどの学会でも共通した問題ですが),異分野間の相互作用による研究創発の機会が減ってきたという歴史的(?)問題があるように思います.このような構造的問題を解決するのは容易ではありませんが,その一つのかぎは「フロンティア精神」という当初の価値観にあるのではないかと思います.

 脳においては,神経回路による情報処理により感覚・知覚,意識,知能や思考,運動,感情といった多様な機能が生み出されていますが,いずれの問題・機能を取り上げても未解決な問題はいくらでもあります.従来の研究の中で見落とされていた問題や定式化されなかった問題,または,かつての環境では手をつけることができなかった問題を,現在の理論的・技術的背景の下で再考することにより新しい研究は生まれ続けるだろうと思います.例えば,以前は役割が不明だったグリア細胞が脳情報処理において重要な役割を果たしていることや,腸と脳の相互作用をはじめとして内臓感覚が脳の情報処理に影響を与えていることなど,かつては話題に上がらなかった新しい問題が次々と提起されていますが,このような新しい問題の出現は新たなモデル研究を必要としているはずです.このほか,ロボット工学に目を向ければ,身体感覚や認知脳科学といった,現在の人工知能ブームではまだ十分に検討されていない問題が残されています.また,ゲーム技術の進展とともに発展したVR技術・AR技術は人間を取り巻く知覚的環境の変調する技術と考えれば,新しい研究パラダイムを生み出すきっかけを与えるに違いありません.

 研究者の業績が定量的に評価されるようになってしまった現代は,頭が柔らかく体力のある中堅・若手研究者が「フロンティア」に挑戦することが難しい時代なのかもしれません.そうであれば,業績に関する心配が不要なエスタブリッシュされた研究者が「フロンティア」を開拓し,その背中をみた若手がそれに続くことを期待したいと思います.

 私の2年間の任期のあいだには,具体的にどのようなことができるかわかりませんが,フロンティア精神をエンカレッジするような企画を打ち出せればよいと考えています.会員のみなさまのご協力をお願いいたします.